昭和41年09月06日 夜の御理解



 現場の当番、善導寺の高山さんでした。朝から除草の御用を頂いて、夕方帰ってみえてからでございました。昨日も壮年部会に出席してから話しておられましたことですけれども、私は話を聞きながら思うんですね、なるほど神様が使いなさるんだなあということです。今まで高山さん総代でもあり、だけれど、大事な話し合いにも出てこないことが多いような状態でしたけれど、まあいよいよ、高山さんの持ち場というか、まあ立場から言うても、持ち場に責任をもって。
 言うなら御用頂かなければならんと、いう時期にだんだん入ってまいりましたら、非常に誰よりもそのことに対して、熱意をもっておられる。その熱意を示していかれるということですね。今日も言うておられましたが、献木の、植木の・・お供えがありますところの家を、できれば一軒一軒回りたいと。そして、ここにこれが欲しいというのを、今のうちに手配しておきたい。同時に私がどこに何を植えたいと、いったようなことを一辺どうり見といて頂きたい。
 今日私ちょっと参りましてから、ここに杉を私は植えたいと言った。だいたい杉どのくらいの杉を持っちゃるとですか、私言ったらまあやっぱここ一間以上も伸びとるらしいですが、それを200本を用意しておりますと。200本は(?)まあ200本はたいがい植えられるだろうとだろうと。まあ言うてあのおりましたが、例えば石のことでも、ああして買わして頂いとる石もあるけれども、足りないところはまあ私の方にあるあれでまあ全部使うて頂いてもよかですけん、あれにいってまあ使って頂きたい。
 今度の、だいたい11日が現場の当番らしい。けれども10日ですか、ちょうどあの11日に学生会、それから青年会の方達があの外部の方の清掃をされるということですから、その日は私はどうでも出席のおかげを頂きたいから、その日に来られる方はと、(?)頂いて、その日は私がまあ言うなら指導して、青年会の方達にやはりこれお願いしようというわけなんですね。
 例え(?)そういうふうに、もうそういうふうなことにでも意欲を見せられなかった高山さんがです、もう本当にこう、自ずとその中に、そうでした、今日の石庭ができておりますものでも、あれにはどうでもやっぱり( ? )白砂が一番よい。今はもう非常にあれが少なくなって取れないらしい。取れないと言うよりもひきにくいらしいんですよ。けれども、青年会の方達にも応援して頂いてから何遍にかですよね。
 3遍にか5遍にも引いて、そしてやっぱりあちらに砂が一番白くてきれいだから、あちらへひきたいと思うとりますといったようなことも、まあその、意思表示をそれにしておられるんですね。そして私、それを聞きながら思うんですよ。ははあ、どうやらこうやら言うこといらんなあと、本当にその場その場で神様がお使いになるんだなあといったようなことを感じさして頂いたんですけれども。
 まあ、まあお互いがですね、そういう、例えば持ち場立場で、いろいろ御用を頂いて、ああしてその大業がなされていきよるわけでございますけれども、そんならそういう神様から使われるということは尊い。けれども私はですね、これは自分の持ち場ではなくても立場上、私の立場で言うなら無関心であってもよいようなことでもです、こちらの方から、言うなら御用に使うて下さいといったような、あり方にならして頂いたら、そこが徳を受けていくのじゃなかろうかというふうに思うんです。
 もちろん自分の持ち場立場は勿論のこと。とでも自分の持ち場でもない、まあ立場上はそういう所にタッチする必要のないような時にもです、私でお役に立つならば立たして頂きたい。そこが私はあの、例えば神の用を足しゃあ、氏子の用は足してやると仰るのは、神様からこう使われるようなもの、ね。これはおかげの世界。けれどもその例えば、そのどう言う様な御用にでも(むせない?)と言うですか、どう言う様な御用にでもタッチしておれれることは有り難いと言うですか、言わば持ち場立場じゃない。
 持ち場ではなくても、立場上そうではなくても、御用に使うて頂きたいといったような私は面談を持つことが、私は徳を受けることじゃないかとこう思う。そこで、まあそういうふうな椛目の方達の場合は、だいたいその私の生き方がそれですから、だんだんそのようなふうにおかげを頂いておられますけれども、ここのところで大事なことなんですけれど、これは昨夜の御理解に頂いておりますように。
 久富繁雄さんが、昨夜の御祈念の時に、頂いておられるようにです、ね、せっかく奉るならば、せっかく御用さして頂くならば、ね、下に「御」の字という字に、行が、ぎょうにんべんの行が、ぬけておるところを頂かれたと、ね。ですから、結局この「御」という字を、御奉るというか、御奉仕をさして頂くと、いうことにならなければならない。ただその持ち場で、立場で、御用に立っておるというだけではなくて、立たして頂いておる、そのことも修行なんだ。
 けれどもその修行に対してですたい、その修行が本当に神ながらな御用にならして頂きますようにというの、もう一つのそれに対するささやかな修行がなされなければならんということを夕べ頂いた、ね。例えばんなら大和さんが畳の御用をなさる、ね。そのことだけでもやはり修行なんだ、ね。けれどもそのことだけでも修行なんだけれども、その中にです、どういう人間氏子のすることでございますから、凡夫のすることでございますから、どこにお粗末ご無礼があるか分かりません。
 そのお粗末ご無礼の、お許しのおかげを頂くためにでもです、このささやかな、この修行をもって、祓いたまい、清めたまいということに、なってくるのじゃないかとこう思う。ここんにきが、私は大事だとこう思うんです。繁雄さんが頂いておられるのは、そうであると。私と委員長が汗かいておる。まあ本当にやっぱ、汗かくように一生懸命のことあろうと思うんです。
 それで、ほら、ならタオルを持って行ってあげなきゃいけない、と言うて繁雄さん、タオルを絞りに行かれたところをまた、次に頂いておられるようにです、ね、そういうふうな私は行き届いた御用、真心のこもった御用、修行を伴うた御用をさして頂いて初めて、その中心に御用を頂く人達が、御用を頂き良いということになるのじゃなかろうか。あそこは私の持ち場じゃないのだから、まあ立場上、私は何の役もしておるわけじゃないのだから、といったようなものではなくてです。
 やはり出過ぎるというのじゃない。そうさしてもらわなければおられないという、それがなされていくということがです、もうそれはです、私共がほけのごとしとたっちゃ、神様が使いなさるということ。これは高山さんの例をもって、私は今度の場合でもそれをいろいろ痛感さして頂いた。一番はっきりしておるのは、今日私が申します、高山さんの場合なのである、ね。いよいよ自分の持ち場、立場上、そういうことにならなければならんと言うのなら、そっからなら(?)だって仕方がないのだという。
 実に積極的である。あの先生、はあもう、私が言う前に言われるんです。それは先生、心配いりません。もうそれはもう万全です、もう自信たっぷりに言われる。ここにはやっぱりこの人がいいです。いいや、やっぱ砂は(?)に限ります。そら今はもう砂はとられませんけれども、何遍かとりゃあとれんことはないと思いますからというふうな、言わば生き方なんです、ね。
 ですから、これをですね、例えば神様(?)の完全に使われござる、と私は思うんです。けれどもですね、使えて、それに立ち上がっていくというだけではなくて、こちらの方から立ち上がって、どうぞお役に立てて下さい、御用に立ちたい、御用に立ちたいと一念がです、ね、持ち場とか立場なんか無視して、そこにおかげ頂く時にです、ね、そのことだけでも修行なんだけれども、そこにでもです、どこにお粗末やら、ご無礼やらあるか分かりませんというところ。
 ここにお道の信心ぶりがあるとこう思うんですね。そこにならそのことに対して例えばんなら100円お供えさして頂くでもです、それだけでもこれは神様は喜んでお受け下さるであろうけれどもです、100円のお供えさして頂くでも、この100円の中にどげなお粗末ご無礼があるやら分からんという思いがあります時にです、それを清めるためのささやかな修行でもそれは心づかせて頂かなければおられんのですね。
 そうしただけでも修行であり、御用なのだけれども、それのもう一つ、私はそれに繁雄さんが頂いておられるのは、御奉るということになっていないじゃないかと、ね。これに行を添えて初めて、御奉るということになるのぞとまあ教えられたんだと私は思うたんですけれどもね、今日もそれを高山さんの、日曜は先ほどまでおられましたが、話を聞きながらそれを痛感いたしました。
   どうぞ。